小樽あんかけ焼そばと親衛隊
◆”小樽あんかけ焼そば”とは
小樽市内または近隣の飲食店にて提供されているいわゆる「五目あんかけ焼そば」のことを指します。小樽あんかけ焼そばは、その約70年の歴史の中で、多くの料理人や店舗が工夫を重ね、独自の進化を遂げてきた小樽のソウルフードです。そのため、「これが小樽あんかけ焼そばだ」という明確な定義がありません。
多くの店舗で見られる特徴としては、よく焼いた麺と多めのあんがありますが、これも必ずしも決まっているわけではありません。小樽あんかけ焼そばは、いまなお各店舗で独自の味の開発が続けられており、今後も多様性を増しながら、小樽市民とともにあり続けます。
◆実録”小樽あんかけ焼そば(炒麺)”と小樽市民の関係
小樽の中華料理界の草分け的存在の近藤庫司氏は、昭和12年に東京白石会(当時の東京にあった中華料理の会)より小樽中央ホテルの初代の中華料理長として赴任され、8年間料理長として活躍されました。
昭和19年に独立され、龍宮神社下にあった「割烹 梅月」の建物を買収、割烹旅館をオープンします。
戦後、「割烹 梅月」は火災で焼失、小樽駅近くの静屋通りに移転して、昭和32年9月18日「中華料理 梅月」を移転オープン致します。梅月は、1階が中華食堂50席、2階が宴席として80席を備えた名実ともに小樽を代表する中華料理店でした。そして、昭和32年の再開以来、メニューに登場した「五目あんかけ焼そば(炒麺)」は、瞬く間に市民の心を捉えました。当時、小樽は20万人近い人口を擁し、中心街は活気に満ちあふれていました。小樽に3軒あったデパートで買い物をした後に、梅月の五目あんかけ焼そば(炒麺)を食べて帰るというのが、小樽市民の流行でした。
長らく、この梅月のあんかけ焼そばが小樽では最初であると考えられていましたが、最近の研究では、都通りにあったレストラン・ロールや花園銀座通りにあった来来軒では昭和25年頃には既にあんかけ焼そばが提供されたことが確認されています。あんかけ焼そばが、全国の中華料理店で、まかない料理として出されていたことを考えれば小樽のあんかけ焼そばの起源ももっとさかのぼれると思われます。
いずれにしろ、あんかけ焼そばが小樽のお店に広まったのは昭和30年代であることは間違いありません。その後、小樽が産業都市から観光都市に姿を変えるまで、あんかけ焼そばは小樽市民のソウルフードであり続けました。
現在もラーメン専門店、一般食堂、喫茶店等であんかけ焼そば(炒麺)が、大人気のメニューになっています。
◆小樽あんかけ焼そば親衛隊
小樽あんかけ焼そば親衛隊は、2011年に発足した小樽あんかけ焼そばPR委員会の活動を引き継ぎ2012年9月に発足した市民団体です。意外に思われるかも知れませんが、小樽あんかけ焼そば親衛隊はあんかけ焼そばを売ったり普及させたりするための組織ではありません。小樽あんかけ焼そばという長年市民に親しまれたご当地グルメを通して、小樽の街をPRすることを目的としています。そのため、イベントであんかけ焼そばを売るときも、必ず小樽市と近隣の観光スポット、お祭り、特産品などのPR活動を一緒に行っています。
小樽市は観光都市として全国的に有名ですが、その実体は観光客の平均滞在時間が4時間を切るなど定型的な「通過型」観光都市です。小樽あんかけ焼そば親衛隊では、名物である寿司・海産物の他に、もう一品名物を提供できれば昼・夜の2食で、滞在時間の延長ができ、それが「着地型」観光都市への転換の一歩になると考えています。小樽の街は明治の開国以前から北前船などの蝦夷地貿易の伝統を持ち、明治維新後も榎本武揚に代表される多くの歴史上の人物が足跡を残したところです。にもかかわらず、まだまだ全国には紹介されていない多くの資産が埋没しています。小樽あんかけ焼そばも、あまりにも小樽市民が日常の中で当たり前のように食べていたため、「小樽で焼そばを頼めばあんかけ焼そばが出てくる」ということの特異さに気がつきませんでした。小樽あんかけ焼そば親衛隊では、このような小樽の知られざる魅力を発掘し、全国、全世界に発信していくことを目標としています。